最近、
「いつ料理を始めたんですか?」
「なぜ教えようと思ったんですか?」
という質問をよくいただくので、
料理と私の今までについて書きたいと思います。
最初に作った料理は、「かぼちゃのスープ」
小学生の時、家族旅行をした帰りに寄ったレストラン。
夜遅く、疲れていた時に頼んだのが、かぼちゃのスープ。
このスープがとっても美味しくて、
帰ってから忘れる事が出来ず、自分で作ってみる事に。
かぼちゃを茹でて裏ごしして、牛乳で割って・・・
家族にサポートしてもらいながら、完成!
とっても美味しく出来て、それから何度も作りました。
最近まで、「かぼちゃのスープ」の味が忘れられないのだと思っていたけれど、
やっと気付きました。
「家族と旅行した帰りに食べたかぼちゃのスープの味が忘れられないのだと」
なぜ、家族旅行の思い出をそんなに大切に思っているか・・・
今は、いろいろ事情があり、家族バラバラの生活をしていて、
家族全員で過ごした思い出というのが、小学生の時から止まっているのです。
私の兄は脳の障害を持っており、幼い頃から養護学校へ通っていました。
話す事も、自分の力で立つ事や、食事をする事、お風呂に入る事も出来ません。
私には、それが普通だと思っていました。
介護をしなければ生きていけない兄に、両親はつきっきり。
共働きだったこともあり、
私は、自分の事は自分でどうにかするのが当たり前。
弱音なんて吐けませんでした。
今思えば、とっても寂しかったのだと思います。
もっとかまって欲しかったし、甘えたかった。
そんな頃、一番の心のオアシスが、すぐ下の階に住む祖母でした。
祖母は、料理が得意で、
「ただいま〜」と帰ると、必ず美味しいものが待っていました。
この頃からストレス発散は食だったのかもしれませんね。
時々、「料理を手伝って」と言われるのがとても嬉しく、
コロッケ、ハンバーグ、ホットケーキ、たこ焼き、寿司は、
特によく作りました。
料理をしている時は、嫌な事はすべて忘れ、とても温かい時間でした。
私の料理は、祖母が原点です。
実は、早瀬るみという名前はペンネームで、
「早瀬」は、祖母の名前なのです。
祖母との楽しい時間とは裏腹に・・・
自宅に帰ると、父と母はいつも喧嘩。
しょっちゅう大きな声が近所中に鳴り響いていました。
私はまだ小学生だったので、心の整理がつかず、ふとんをかぶって耳をふさぎ泣いていました。
喧嘩する両親が嫌いで、「早く離婚してくれ」と、泣きながら訴えた事もあります。
こんな家にいたくないと思い、気が付いたら泣きながら家出の荷造りをしていました。
千円札を1枚、頼りになる親戚の住所、大切な友人の住所と便箋、着替え。
いつでも家を飛び出せるように、子供用のキャリーバックに荷物を詰めて、小学校の空きロッカーにずっと入れてありました。
私の理想の家族は、みんな笑顔でご飯を食べる事。
こんな理想の食卓は、いつが最後だったかすら覚えていません。
すぐ上の階にはいとこが住んでいて、よく遊びに行っていました。
おばさんは、お菓子作りが得意で、よくクッキーを焼いてくれました。
うちにはオーブンがなかったので、私も作れるようになりたいと、
おばさんに教えてもらったのが、お菓子作りの原点です。
バターの香りと、焼きたてのクッキー、ミルク。最高でした。
おばさんは、とても優しい笑顔のおっとりした方で、
「お母さんと一緒にお菓子作りがしたい」
という私の夢を叶えてくれました。
私の母は、料理が得意でなかったので、
この二人なくして、今の私はいないと思います。
私がお菓子作りにはまっていると、父はオーブンを買ってくれました。
それからというもの、家では、クッキーやカップケーキを焼いて、
友達や学校の先生によく配っていました。
喜んでくれる顔が見たくて、可愛いラッピングにもはまりました。
喜んでもらえる事で、自分の存在意義を確かめたかったのかな。
中学になると、部活がスタート。
夏休みはお弁当を持って行きました。
今でも忘れられないのが、伝説の「白い弁当」
中身、想像できますか?
2段弁当で、1段目が白いご飯、2段目がポテトサラダ。
これでどうやって食べろと??
さすがに、母に文句を言いましたが、
忙しくても作ったのに、もう食べなくていい!と言われました。
今となっては珍事件すぎてネタですが。
友達はみんな可愛い愛情たっぷりのお弁当だったので、羨ましかったな。
自宅では、父と母はますます仲が悪くなり、会話がなくなりました。
そのうち、別居。
私もそんな家に帰りたくなく、知人宅にしょっちゅう避難していました。
軽く登校拒否もしていました。先生は不良だと思っていたみたい。
食事は、祖母の家で毎日食べるようになり、母の作ったものはほぼ食べなくなりました。
家族でコミュニケーションを取る事もなくなり、バラバラ。
部活だけは熱心にしていた為、部活推薦で音楽高校へ進学。
その頃には、完全に母は家から消えていました。
いろいろストレスがあったのだろうと今では理解できます。
兄の面倒は、私と祖母でみていて、父は仕事。
高校に入った頃から、掃除洗濯、食事作りなどの家事は私と祖母で分担。
父から食費をもらい、高校の帰りに毎日スーパーで安いものを買っておかず作り。
父と私の分のお弁当も作っていたので、そのおかずも考えながらの夕飯。
肉・魚の料理を毎日交互になるようバランスも考え、安い野菜は大量に買って使い回し。
祖母にアドバイスをもらいながら、かなり鍛えられました。
なぜそんなに料理をするかって?
それは、家族の為に夜まで働いて帰ってきた父が、
自分の為の食事を作る後ろ姿が疲れきっていて、寂しそうで、見ていられなかったんです。
父の応援なくして、音楽高校へは行けなかったので、
その感謝の気持ちもあり、
私が頑張る!と思って、食事作りは私から提案したのでした。
高校2年になると、父の仕事の関係で引っ越し。
高校3年の春から、一人暮らしになりました。
兄は施設へ預け、父は遠方へ。母はどこかへ。
ますます家族がバラバラになりましたが、
私としては喧嘩の声がなくなり、やっと解放されたという気持ちでした。
家事はすべて出来るし、生活に不安もありませんでした。
しかし、家族全員分の荷物が引っ越しで運ばれて来たので、
家はダンボールだらけ。
とりあえずベットと制服や教科書のみを出して、ダンボールに囲まれる生活がスタート。
引っ越してきたばかりなので、夜が怖くて、しばらくは電気をつけっぱなしで寝ていました。
祖母と少しずつ片付けをし、数年間かけてやっと家がすっきり。
この頃、高校とは異なるところで、音楽の輪が広がり、年上の友人がたくさん出来ました。
その友人達はみんなグルメで、いつも美味しいお店に連れていってくれました。
餃子を食べに宇都宮、日の出を見に東北、箱根の温泉、アウトレットなど、
旅行にも連れて行ってくれました。
一人ぼっちで寂しい思いをしているのだろうと、いつも気にかけてくれ、
そこには、必ず美味しいものが待っていました。
この頃に、第2の味覚が育ったのだと思います。
Aへ続く。
2015年08月14日
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